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犬鳴川物語1
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 <宮若市の犬鳴川はいつごろ今の形状に?>

  ・・・・なったのでしょうか?
 

    
 上大隈の「みどり大橋」鶴田方面をのぞむ
   (平成13年7月 犬鳴川川下りにおいて)
 ここらあたりから、右に曲がって小竹方面に流れていたのでしょうか。

犬鳴川物語2
 
 数百年前にさかのぼりましょう。
 ときは中世戦国時代、日本国内至る所で合戦が展開され、下剋上(げこくじょう)の弱肉強食の中で国内は荒廃し、本城田圃(たんぼ)もいくつかの河川の道筋ができ、湿田と化していました。
 しかし、江戸時代になり、戦乱の世が落ち着き天下泰平になると、新田開発、開墾などの耕作意欲も高くなり、遠賀川大築堤工事や遠賀川から洞海湾に水を流す堀川掘削工事なども行われるようになりました。
 こうした中、福岡藩は、宮田町内では、慶長年間に本城地区の耕地整理を行うとともに、本城田淵、龍徳、鶴田流浪、尾勝を経由して流れていた犬鳴川の流れを現在のように本城本白、上大隈、龍徳、新入を通って、直方市の植木で遠賀川に流れ込むようにしました。
  それを物語るものの一つに、鶴田には入船、出船という地名があります。

 平成15年2月1日に福岡県立鞍手農業高等学校澤田憲孝教諭の研究論文<犬鳴川流域変遷史考>に接する機会がありました!!! 素晴らしいことです。是非ご覧ください。


 ○百間土手(ひゃっけんどて)

 また、慶長年間には水害から人家田畑を守るなどの理由で本城徳丸堤より犬鳴川に延びる「百間土手」が農学者宮崎安貞(1623年〜1697年)の指導によって造られたといわれていますが、太平洋戦争後の鉱害復旧の際、大半は消滅しましたが、本城徳城にその痕跡の一部を見ることができます。
 道路が百間土手の痕跡
 写真正面に「徳丸堤」が見えます。



(平成9年11月1日犬鳴川だより第4号「犬鳴川の歴史と暮らし」清水範行 稿 より作成)














○「宮田町権助ポンプ場」

 昭和28年6月28日の大雨で現宮若市役所付近から眺めた大出水の様子です。
   (写真は澤田憲孝氏提供)

昭和60年6月の豪雨による徳城付近(現JA直鞍付近)の冠水状況です。
      (写真は、宮田町提供)

それから10数年、大雨が相次ぎました。

 平成11年6月の豪雨で、危険水位を大幅に上まわっている犬鳴川の写真です。撮影は、本城大橋から日の出橋(宮田橋)を望みます。左手奥が宮若市役所、右手は徳城、太蔵東区にあたります。
 その時は、あまりの凄まじさに身がすくむ思いでした。
      
               (写真は、旧宮田町提供)

しかし・・・・

 平成8年に徳城、犬鳴川河川公園すぐ側に、「宮若市権助ポンプ場」が完成しました。なんとこのポンプ場は、犬鳴川の水位の方が地表より高くなった場合に、自動で3台の巨大なポンプを適宜順次に作動させて水を大量に排出し、以前のような冠水をかなり防ぐようになりました。ですから、激しい夕立のとき、水の濁りのひどいときなども自動で働くそうです。児童・生徒さん達も更に詳しく調べて見ませんか。
 なお、停電のときは、自家発電装置が備えられているそうです。
 関係局は、毎月1回は定期点検を、10年に一回はオーバーホールなど、いつでも非常事態に備えてあります。
 今一度、「権助」君を見直してくださいませんか。



−−−−−−−権助ポンプ場概念図−−−−−−−


※「権助水路」は地域37haを対象に、太蔵東区の町並みを抜けて
徳城、そして権助ポンプ場に到ります。
このポンプ場が稼働するまで、20数年の大事業でした。
この工事の関係者に感謝したいものです。

※上の概念図は、本HP担当が作成したものです。やや不正確さをお許しください。


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