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「千石」の地名と「天照神社」の起こり


 鞍手郡宮田町の「千石峡」の背後にそびえる笠木山登山道近くに仏谷(ほとけだに)と呼ばれる所があります。むかし、
  千石キャンプ場の入口の右側に穂掛神社がありました。社殿はどうなっているのでしょうか。どなたか調べてください。  左写真の鳥居に、確かに穂掛神宮と銘が彫りこんでありました。
 笠木山頂には、降臨された神様たちを祀った社がありました。参拝には、けわしい道を登らなければならなかったので、老幼婦女のため後年になって、ふもとに移しました。
 その境内には、大きな椎の木が数多く茂っていました。秋になると農民たちはこの椎の木の枝に稲束をかけ、稲穂をたらしていました。大木の葉の茂みは少しぐらいの雨を防ぐからだろうか。いつか、農民たちはその社を、「穂掛神社」と呼ぶようになりました。この大木の穂掛けのうわさを
 宮田町の「千石峡」
知った領主は、どのくらいの稲穂が掛けられるのか、役人に命じて調べさせました。その結果、籾(もみ)の総量が千石(百五十トン)にのぼりました。それが評判になり、現在の千石の地名になった、と伝えられているそうです。
 ところが、困ったことがおきました。山頂より移した穂掛神社の祭神のうち、饒速日命(にぎはやひのみこと)が夜毎に近隣の長老たちの夢まくらにたち「東の方に行くと、変わった色をしたひとつがいの雀が住んでいる。その土地に社を移してくれ」とだだをこねました。古老たちは不思議に思いなが
  宮田町磯光の今の「天照神社」
ら、お告げを話し合い、各村から人を出して探すと、たしかに白い羽をした一つがいの雀がいました。
 そこで古老たちは、領主に事件の経過とともに、社の移転方を願い出ました。ことが神さまのことだけに仕方なく、地元の協力によって神社の移転が行われました。これが現在、宮田町磯光にある天照神社であります。穂掛神社跡は「ほかけ」がなまって「ほとけ」谷の地名が残ったに過ぎません。(昭54.11.11・上刎)


 ※なお、上記の「仏谷」の地名は、確認できませんでした。どなたかご一報ください(藤渕)。

 出典:「ふるさと筑豊」(朝日新聞筑豊支局編)

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