ふるさとみやわか
「ふるさとみやわか」郷土史研究会によるページです。
福岡藩加藤司書伝の虚偽

乙丑の獄(いっちゅうのごく)とは

御別席絵図で見る真実   加納 五郎



   

 
 幕末福岡藩の家老で筑前勤王党の始祖といわれる加藤司書は、勤王派の五卿を大宰府に庇護したり、そのた活発な倒幕運動をしていた。当時、福岡藩は勤王派と佐幕派の確執があり佐幕派の藩主・黒田長溥が勤王派の活動を面白く思っていなかった。だが世相は下関で外国船からの陸地攻撃があり、福岡城は海に近く船よりの攻撃にそなえて、筆頭家老の加藤司書は、藩主を大砲の届かない大嶋谷に別館を作り避難していただこうと、別館建設に着手した。しかし佐幕派はこれはあくまでも名目であって、実際は藩主長溥を幽閉し、その子長知を擁立、勤王派が藩の主権を取ろうとした策略であると長溥に進言、殿の逆鱗にふれ加藤司書は切腹、勤王派百数十人は弾圧された。世にいう乙丑の獄である。もし加藤司書が生きていたら、当時の倒幕運動の同士には家老職の人はなく、西郷隆盛や伊藤博
文以上の活動をしたものと惜しまれている。この獄により有能な人材を失い、福岡藩は明治維新に乗り遅れるのである。その後出版された『加藤司書伝』では、すべて冤罪と断定、当時の佐幕派の讒言で起こった不幸な事件として卑怯な手段を取った佐幕派の人々は悪人の汚名がきせられ、今日に至っている。
 犬鳴谷とは、宮若市の西端に位置し南北3キロの奥深い谷である。その谷奥に福岡城の別館である犬鳴御別館があった。

 数年前、この御別館の御茶屋奉行であった久山町の久野家から絵図面が発見され、当時の若宮町に寄付された。絵図面だけでは気づかなかったが、今回福岡城築城四百年事業の一環として御別館の復元立体模型が作られた。それを見て誰もが不思議に思ったことは玄関がないことである【絵図参照】。玄関らしき所は四畳半の畳の間となり、入口は雨戸が立てられ、その前に濡縁が張りめぐらされている。藩主の居間は畳の敷込みが囲み、雨戸が立てられ、濡縁が取囲んでいる。誰が見ても幽閉の為の設計である。
 秘密漏洩を恐れて厳重に監視されていた筈の大工がその目を盗み、博多の柳町の遊女と遊びついその事を洩らした。たまたまその情夫が、目明しですぐに佐幕派の知るところとなり、乙丑の獄となる。明治維新の二年前のことである。
 話は少し遡る。当初御別館は、四方が低い多くの里山に囲まれた要害の地、若宮盆地の中央にある小金原台地に作る予定であった。その測量の綱引きにかり出された人夫が、大正時代まで生きていたので間違いない。この小金原台地は天正時代、大友氏の家臣立花軍と地元豪族が戦った古戦場でもある。古く足利尊氏が北条氏に敗れて九州で兵を集めて、この里山の一つ鬢鏡山で采配をふるって演習したと伝えられる要害の地でもある。
 これが、犬鳴谷に変更になったのは、最悪の場合の抜け道となる空井戸が水位が高く2b位で水が出るので作れず、やむなく代わったと伝えられている。 


しかし、ほんとうは、平野の中央で佐幕派の藩主奪回の戦いとなると、大勢の兵を常駐させる必要がある為、三方が峻厳な谷に囲まれた現御別館の方が少数の兵で守れると考えたからと思われる。また脱出口となる空井戸は御別館の御手洗所の下に5b位の物が振られていたが縦穴だけで水はなく横穴はなかったという。逃げ道を作る予定であったが間に合わなかったとも伝えられている。これも佐幕派の奪回戦に敗れた場合の殿を隠す牢ではなかったのかと考えると辻褄が合う。

以上の事から考えると口には出さぬが、この御別館は佐幕派のいう藩主長溥を幽閉する目的の施設である事に間違いない。

当時勤王派の人々は佐幕派の藩主の意向にそむき、これを幽閉し勤王派の目的を達成しようとする反逆者の集団であったといわざるを得ない。勝てば官軍ではないが『加藤司書伝』に書かれた事の真偽は疑わしい、あくまでもおもて向きの事で、真実ではないと考えられる。またその為に佐幕派の人々は、当時としては、当たり前の正当な行為をしただけで、決して非難されるべき何ものでもない。

未だに悪人扱いされているこの佐幕派の人々の名誉回復を願って一筆とった次第である。

 (この文は『歴史研究』第五六一号に掲載)


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