貝島炭鉱の歴史
貝島炭砿の歴史回顧

炭坑節のメロディーが流れています。



貝島炭砿が起きるまで
 
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@創業者「貝島太助」氏の生い立ち


 創業者貝島太助は,弘化2年(1845年)筑前国直方(現直方市)字古町新入口で生まれる。
 9才の頃から,父に従い坑内に出入りして採炭を手伝う.11才の頃から,骸炭焼,野菜売り,鍛冶屋の弟子,山内家(武士)の下男,雲心寺の寺男,綿打ち等の仕事をした.(写真:貝島太助氏肖像、宮若市石炭記念館蔵)

A貝島太助炭砿経営に乗り出す

  太助は,弟文兵衛や六太郎,嘉蔵らと力を合わせ,慶應3年(23才)冬に山辺炭坑(後の三菱新入炭鉱)をはじめ,その後,切貫坑(直方町切貫),馬場山炭坑(遠賀郡馬場山村),斯波炭坑(遠賀郡香月村)を手がけた。

B貝島太助「貝島炭砿」起こす

 明治18年,太助41才の時,鞍手郡上大隈村字代ノ浦にて,大之浦竪坑(旧一坑)の開鑿に着手した。これが貝島炭砿の始まりである。
 その後,明治40年頃までに宮田村大字磯光字本田,梅ノ木,野入,榎木,宮田村大字宮田字杉板,上大隈,笠松村大字四郎丸字満ノ浦,笠松村大字長井鶴字前田,遠賀郡香月村大字香月,佐賀県厳木村字本山に炭坑を広めている。
  これが現在の鞍手郡宮田町,北九州市八幡西区香月,佐賀県東松浦郡厳木町である。
 
 写真 : 第一大之浦炭砿竪坑
  (明治18年開坑)

 明治28年撮影

 笠(たこんぱち!?)を被った坑夫の人たちが見えます。

 竪坑の動力は、おそらく石炭燃焼による蒸気だったのでしょう。






貝島炭砿操業の変遷(閉山迄)

●貝島炭砿の中の,宮田町内だけの従業員数は次のとおりである。

   明治35年  7,305人
   大正 8年  9,239人「家族  8,277人 合計 17,516人
                 住宅戸数 4,000戸)
   昭和12年  8,830人(家族  16,640人 合計 25,470人
                 住宅戸数 5,240戸)鑿鑿
  昭和19年 10,840人
  昭和20年  4,544人       (会社年表草案記載文のみ)

●貝島炭砿は,明治41年頃までの炭坑を大きく四つの鉱山とその他に統一した.それは次の通りである.

  1 菅牟田鉱山(一,二,三,四,五坑) 宮田村大字磯光 
  2 桐野鉱山(一,二坑)          宮田村大字宮田
  3 満之捕鉱山(一,二,桐野三坑)   笠松村大字四郎丸,大字長井鶴
  4 大辻鉱山(一,二,三,四坑)     香月村大字香月,大字楠橋
  5 その他   津波原鉱          粕屋郡勢門相 
           柚之木原鉱         佐賀県小城郡北多久村
           岩屋鉱            佐賀県東松浦郡厳木村

●その後幾多の変遷を経て,大正13年に菅牟田,桐野,満之浦の三鉱山を一括して大之浦炭鉱と称し,閉山時に近い一,二,三,四,五,六,七,八坑とした.

 また,宮田以外では,大辻炭鉱,岩屋炭鉱となる.

 昭和12年には,北支(河北省せいけい県崗頭村)のせいけい炭鉱の管理という事で,海外にも進出している。

●戦後,昭和24年には,二,三,東三,五,西五,六,七,八,毛勝坑の9坑となった。 

貝島炭砿1.2坑炭住街

   (写真:貝島炭砿2坑1.2区、現在の杉坂B&G付近  昭和25年頃の撮影です。)

●昭和25年5月には,東部大之浦開発工事の中央竪坑開坑鍬入式が行われ,昭和28年12月に完成し,三坑,東三坑を合併し「新菅牟田坑」が発足した。
 (中央竪坑・・・直径6m、櫓54m,深さ430m.第一,第二水平坑道4,830m。年出炭目標60万トン)

●石炭から石油へとエネルギー革命により,昭和38年に第五次合理化があり,
  ・二坑,五坑の第二会社移行
  ・竪坑の黒字体制の確率
  ・露天掘安定収益確保
  ・人員整理(砿員2,292人、職員312人、合計2,604人)
が提案され,二坑が第二大之浦炭砿,五坑が菅牟田炭砿,六坑が満之浦炭砿という第二会社へ移行し,大之浦炭砿は,新菅牟四坑と露天掘のみとなった.
 この合理化により,貝島炭砿の従業員は,全盛期1万人前後いたのが,昭和39年には、約2,600人となった。
 彼らは新天地を求めて東京都,愛知県,大阪府,岡山県,広島県等太平洋ベルト地帯・地域へ,家族共々再就職し,宮田の地を離れていった。

●これで宮田町の人口も激減し,町内の小・中学校も転校生が急増し,小学校では,大之浦小学校,菅牟田小学校と緑ヶ丘小学校の3小学投が統合され,宮田小学校となり,満之浦小学校は廃校となり,児童は笠松小学校へ通学した.
 また,中学校では、大之浦中学校と宮田東中学校が統合され,宮田光陵中学校となり,町内小・中学校は12校から8校へと減少した。

●昭和42年には第二会社であった菅牟田炭砿(旧五坑)が1月に閉山し,4月には満之浦炭鉱(旧六坑)が閉山。また,昭和46年には第二大之浦炭砿(旧二坑が閉山した。

●その後,昭和48年11月には,大黒柱であった新菅牟田の竪坑も終結し,筑豊炭田における坑内掘は,この竪坑を最後に姿を消した.(昭和26年の炭鉱数は,全882、九州473、筑豊265であった。)


        (貝島露天掘り:昭和46年3月撮影、旧大之浦中学校前と思われる)

●そして,最後のたのみの綱であった露天掘も,昭和51年8月に中止し,貝島炭砿は,明治18年から91年間続いた石炭採掘も終止符を打った。

●宮田町も工場団地を造成し,工場誘致に力を入れ,現在,トヨタ自動車(従業員約2,000人,東芝(従業員約1,000人)等数社が稼倒し,新しい宮田町に変わりつつある。

※ 資 料                       
 戦後の従業員(砿貞)数と出炭実績(宮田町内のみ・大辻,岩屋炭砿は除く)

 年(昭和)

砿員在簿数(人)

出炭実績(トン)

     備  考

   24

   9,657

   830,350

 

   25

   9,143

   863,050

 

   29

   7,710

  1106,900

     竪坑操業

   31

   6,856

  1198,503

 

   34

   6,894

  1325,026

 

   36

   5,525

  1385,372

 

   39

   2, 610

  1409,000

     合理化後の

    第二会社も含む

    43

   1,180

  1141,200

    48

     359

   663,508

    坑内掘終了

    51
 

       7
  

    34,698
 

    完全閉山
 


    貝島炭砿操業総出炭約1億トン

* 内 訳

     炭 砿 名

    総 出 炭

    備  考

  大之浦(宮田町)
 

   7,800万トン
 

 坑 内 7,100万
 露天掘  700万 

  大 辻(北九州市)

   1,500万トン

 

  岩 屋(佐賀県)
 

    700万トン
 

 

詳細は、宮田町石炭記念館(0949-32-0404)へ
なお、現資料・写真は石炭記念館長 榎田崇氏から提供。


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